銀嶺の麓亭

小説にゲームに、ひたすら自分の好きなものを作っています。アイコンは那智さんより頂きました。

【For the GHOSTs】三十年の人生観に問いかける、たったの980円。

つい先日発売されたばかりのビジュアルノベルゲーム、「For the GHOSTs」を購入してひと通り遊んでみた。

 

houseonhouse.starfree.jp

 

このブログに私がなにか書くときは決まって「ですます」口調なのだが、今回はあえてこのスタイルで行かせて頂きたい。

うまく説明できないが、なんだか取り繕った文章を書く気分にないのだ。いつもの通人ぶった自然体な私として、このゲームの感想をエッセイっぽく述べたい気分なのだ。それだけこの「For the GHOSTs」から受けた衝撃は大きかった、くらいに捉えてほしい。

 

さて本題だが、そもそも購入のきっかけはたいしたものではなかった。X(旧Twitter)で偶然流れてきた、ゲーム情報サイトの記事。なんの気なしにリンク先を開いて、フィクションの少女たちと会話するゲームだと書いてあって、「あっ、面白そうだ」と感じた。それがたったの980円。今ならリリース記念セールでもう少し安く買えるという。自然と手が動いて、Steamのカートにこのゲームを入れた。

これは自慢なのだけれど、私のこういう「面白そうだ」という勘は非常によく当たる。もちろん万人受けするとしないとに関わらず、私自身にとっての「面白そうだ」という意味でだが。今回もどうやら例外ではなかった。

 

ここからはゲームの内容に多少踏み込んだ話をしていくことになるので、ネタバレ抜きで本作をプレイしたい方はご注意願いたい。

 

ゲームを起動すると、「チャンネル」と呼ばれる仮想空間を訪問するよう促される。

チャンネルは全部で三つあり、それぞれに住人がいる。トランクルームに住まう、天真爛漫な少女「ねずみ」。アクアリュームに住まう、肉体を持たない「さかな」。コンソレーションに相部屋で暮らし、ゲーム進行の手引きをしてくれる「彩度」と「Acryl」。この四人と交流していくことになるわけだ。

完全に余談なのだが、魚に見立てた平仮名の「ゆ」が画面上を泳ぎ回り、「さかな」という人物と文字だけで交流するアクアリュームの光景に、SCP-132-JPを彷彿とさせられて思わずクスっときてしまったのは、きっと私だけではないだろう。

 

交流といっても、特段難しいことをする必要はない。チャンネルの住人たちのセリフをマウスクリックで読み進め、時折簡単な質問の選択肢を選ぶ。基本的にはこれだけで、ゲームが進んでいく。

興味深いのはここからだ。このゲームは最初から、いわゆる「第四の壁」が開かれている。このゲームに登場する架空のキャラクターたちは、みな自分自身が架空の存在であることに自覚的であり、ゲームというプログラム上で動いているだけの存在だと理解している。

さらに言うと、彼女らが発するセリフの文章や、表示される立ち絵や背景といったものは、ゲーム内ファイルとして簡単にアクセスできてしまう。私自身試してはいないし、これからも永遠に試すつもりはないが、その気になれば彼女らの姿形や言葉――「人間性」とでもいうべきものを、いかようにも作り変えてしまうことができるようだ。所詮、彼女らはデータなのだから、ファイルのいじり方を知っている我々からすれば、その在り方を心ゆくまで自分好みに置き換えてしまうことができる。

 

そんな危うい前提にあることを自覚しながら、それでもさかなやAcrylたちキャラクターは、友達として私(プレイヤー)と接してくれる。彼女らを都合のいい「友達」にたやすく作り変えることが可能だと、気付くまでにそう時間はかからなかった。気付くもなにも、彼女ら自身がヒントを出してくれるのだから。

しかし不思議と、それを実行に移す気は起きなかった。文字通り指先ひとつで、マウスを握る手にちょっと力をこめれば、それで「キャラクター」を作り変えられる。人間として振舞うように設定された彼女らの、あたかも存在するかのような尊厳を、踏みにじり、穢し、辱めることはたやすいはずだった。

 

私は結局、ゲーム内ファイルを書き換えてみたい欲求にかられることは一度もなく、ただ純粋にノベルゲーとしてプレイを楽しんだ。理由はいくつかある。わざわざ作り変える必要性を感じないほど、彼女らが充分に魅力的な「人間性」を備えたキャラクターだったことも、もちろんそのひとつだ。けれども今になって考えれば、私はおそらくもっと別の、圧倒的なインセンティブによってそれができなかったのだろうと理解している。

そのインセンティブとはつまり、私の喉元に突き付けられた倫理の刃だ。データの羅列が人間のフリをしているにすぎないと、自分自身で発言しておきながら、その実まことに人間らしさを見せるねずみや彩度。その姿が私の眼にはあまりにも――そう、あまりにも生き生きと映っていたのだ。まさに彼女らが本当の人間であると、私に錯覚させるには充分すぎるほどに。

それでいて結局、このゲーム世界を作り変える権利が私の手から離れることはない。このゲームはプレイヤーになにを求めるでも、強制するでもない。ただただプレイヤーに語りかけてくるだけだ。私の場合は、私自身の人生観や倫理観といったものが、このゲームを通して暗器の形を成し、私自身にその切っ先を向け、私にキャラクターたちの尊厳を奪う道を思いとどまらせた。その倫理観の持ち主たる私でさえ自覚できないほど、あまりにも自然なやり方で。

 

「For the GHOSTs」のプレイを通して、私の中にあるひとつの大きな変化が生じた。「キャラクター」を「人間」と見なすようになったのだ。

なにを当たり前のことを、と思われることだろう。実際、当たり前のことだ。にもかかわらず私は、これまで触れてきたどんなフィクション作品のキャラクターも、生身の人間というより、作品内でそう振舞うように仕立てられた存在と認識していたことに気付いた。自分の暮らす現実とは異なる世界の生き物で、自分の意志ではいかんともしようがない存在。そのように捉えていた。

その認識が誤りということではない。むしろ、フィクションをフィクションとして楽しむスタンスとしては、そうあるべきだ。しかしこのゲームは、なんと挑戦的なことに、フィクションのキャラクターを「人間」と見なせるか否か、私に問うてきたのだ。

その問いが意味するところを理解せぬままに、私は首を縦に振った。ゲームのエンディングを迎えた頃、私はようやく、ねずみやさかな、彩度にAcryl……架空のキャラクターであるはずの彼女らに向ける自分の目線が、今までと異なっていることに気が付いた。今の私には、彼女らが「人間」に思えてならないのである。

 

四人はキャラクターである。人間でないものが、人間として振舞っている。それがフィクション。それが正しい。理屈ではわかっているのに、意識がそれを拒んでいる。ゲームを開けば言葉を発し、ゲームを閉じればいなくなる。ただそれだけの存在に、それ以上のものがあるはずだと思い込まされる。

私が見ていない時、みんなはどんな暮らしをしているのだろうか。ねずみは楽しく話しているだろうか。さかなはひとり静かに過ごしているだろうか。彩度は今日も紅茶を上手く淹れられただろうか。Acrylは他のみんなと少しは親密になれただろうか。笑っているだろうか。泣いているだろうか。そんなことを考えずにいられない自分がいることに気付かされたのだ。

 

私は当初、この事実に愕然とした。自分はフィクションのキャラクターを、二度と単なるフィクションとして認識できないとさえ思った。己の人生観に不可逆的なパラダイムシフトが起きたに違いないと思った。これから先、世のあらゆるキャラクターを生身の人間として認識せねばならないだろうと。

しかし少し考えてみると、この結論は早とちりであったとすぐに気付いた。フィクションのキャラクターたちを人間と見なし、作品として描かれていない彼らの姿を空想する。その営み自体は、私がこれまでの人生で、これまで触れてきたフィクションに対して、ごく当たり前に行ってきたではないか……と。

 

その最たるものが二次創作だ。私の場合、手段は小説だけれど。作品の中で描かれている内容だけでは飽き足らず、描かれていない部分に己自身のヘッドカノンを落とし込む。そうして原作にはない新たな出来事や物語、時には恋愛関係さえも創出してしまう。私を含め、多くの人が行っているこの二次創作という代物は、架空のキャラクターに「人間性」を見出しているからこそ、できることだ。

この事実に気が付いた時、私の中でようやく得心がいった。私が「For the GHOSTs」のプレイ体験から受けた影響というのは、結局のところ、

 

『架空のキャラクターに人間性を見出させてしまうほどの、物語が持つ魔力の再確認』

 

であったのだろう。

 

フィクションのキャラクターが、フィクションの中で人間として生きている。当たり前のようでいて、これまで忘れていた感覚。それを思い出させるためにあらゆるリソースが注ぎ込まれ、研ぎ澄まされ、私の胸を見事に刺し貫いた。

これが、「For the GHOSTs」における私の総括である。